LA - テニス

08-09 短編
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バレンタインデーに特に嫌な顔をするでもなく残業を引き受けた時点でフリーなのはほぼ確定した。
他のヤツらは予定があると言わんばかりに濃くなる化粧の中、アイツだけは違うと思った瞬間、ホッとしたのは事実だ。
俺らしくもない。随分と慎重に思いを温めて来たのは年を重ねた所為だろうか。
ずっと気になっていた。ずっと気になって見つめて…それを告げるにはもう昔のような大胆さは無かったんだ。

随分と驚いた顔をしてた彼女をよそに俺はただ、あの日だけは昔のように突っ走った気がした。
よくよく考えれば肝心な言葉すら伝え忘れていたような気が今ならするが…あの日はただ浮かれて抱いた。
誰がどう考えてもそうとしか取れないだろうことをこの俺が突っ走ってしたにも関わらずアイツと来たら…
目覚めた時にはすでに姿を消していて、会社に出てみればいつもと同じ顔して仕事を始めていて。

そう、何も無かったかのようだった。



「ホワイトデーのお返しだ。好きなものを持って行け」

それからずっとそうだ。何もなかったかのように振る舞い、何も無かった顔をしてやがる。
今日だってそう。今回はこれ見よがしに分かるようにこうして俺が振舞ってるにも関わらず涼しい顔。
少しだけ横目でそれを眺めてまたパソコンの画面を眺めるだけ。時折、何かにメモを書きながら。

常にそうなんだ。媚びることもなけりゃ用がなければ近付くこともしない。
それだけ自分に興味が無いのだと思えば、年を重ねた分だけ臆病になっていくもので。
それでもあの日だけは…何故か衝動に駆られて突っ走って。そして、それに彼女も応えた。
俺らしくも無い。その時だけはただ浮かれて彼女を手に入れたんだと信じて疑わず、翌日には落胆した。
何も無かった。影もカタチも無くなって、ぬくもりさえも無くなっていたのには落ち込んだ。
本当に、何事も無かったかのように消えた。それだけは確かだった。

「……跡部、さん?」

ふと、声を掛けられて顔を上げればもうそこには誰もおらず、目の前にポツンと彼女が居た。
ほんの少し前にダンボールに入れたお返しを置いたばかりだと思っていたが、どうやら時間は随分と経過していたらしい。
自分の時計と会社の時計、パソコンに表示された時計を交互に見比べたがどれも同じ時間を指していた。

「そ、そろそろ…私も失礼します、けど」
「……そうか」
「あの、そ、それで…」

ポンッと置かれたのは随分と可愛らしいラッピングがされた何か。
お返しだと言わんばかりのソレの中身は全く検討も付かない。だが、嬉しくないなんて言えやしない。
お互いに何とも言えない空気が漂った。お互いに何かを言おうとして口はかすかに動いてて。
そんな時間が少々。不意に早々にお辞儀だけして俺の前から立ち去ろうとした彼女を、当然――…

「簡単に逃がすかよ」
「あ、跡部さん…」
「何故逃げる?何故逃げた?あの時も」
「わ、私は…」
「この俺がどれだけあの時落胆したか。天国から地獄だ。奈落に落とされた気分だった」
「だっ、て…」
「何だ。だって何だよ!言ってみろよ!」

「わ、分からなかった、から、何も」

捕まえた腕は震えていたのが分かった。腕だけじゃない、彼女の体自体が小さく震えていた。
突拍子も無く貰ったチョコに、その後押されるがままに進んでしまった事に、彼女は頭が働かなくなったと言う。
あの日に何が起こったのかは分かっていても理由が分からない。何故、そうなったのかが分からない、と。
それなら直接俺に聞けよ、尋ねて来いよ、と言いたくもなったが…それも出来ない理由が分からなくもない。
あの日まで何もなく過ごして来た上司と部下だ。突然それを勝手に変えたのは俺、だ。

「悪かったな」
「……はい」
「そこは敢えて否定しとけ」

そうだな。コイツからすれば…何も無かったかのようにする以外に方法は無かったのかもしれない。
今日まで俺はそれを察することも出来ずに同じ顔をしてたんだ。コイツはもっと、悩んだかもしれない。
俺らしくもない。随分と慎重に思いを温めて臆病になって…大事なことを伝えられないなんざ、下らない男だ。

「お前が好きで特別な存在だったんだ。だからあの日…抱いた」
「……」
「前以って計画はしたつもりだった。けど、急に、」

昔のように突っ走ってた。年上の、上司の威厳ない。大人らしいスマートさもクソもない。
プツンと弦が弾かれたかのようになった俺は…さぞみっともないヤツだっただろうよ。余裕の無いただの男だ。
だけど、ただこれだけは言えるだろうよ。

「お前が俺を狂わせてる」
「跡部…さん?」
「どうにかしろ」

誰も居ない職場で響いた俺の声は、自分で聞いても情けないくらいに余裕のないものだった。
響く心拍数も情けなくて、きっと今の顔だって情けないものになってるかもしれない。
誰にも見せられねえ。誰にも見せられないが…お前だけには見せても構わない。そう耳元で囁けば…
「最初に、そう言って欲しかった」と、初めて彼女が俺に反論した。



キミにあげる
(最初から回りくどく言わなきゃ良かったんだな)



(090519)
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