LA - テニス

05-07 PC短編
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---音楽を鳴らす



突然、泣いている姿を見たら…どうすれば良いかわからなくなるだろう?
何があったのか、どうして泣いているのか。そんなことを聞く前にただ体が動いていたのもまた事実。
きっと、驚いていることだろう。きっと、困惑した表情でいるだろう。
そうなることくらい俺にだってわかっていたはずなのに、体が勝手に…彼女を抱き締めていた。

「弦、一郎…くん?」

彼女にしてみれば前触れもない行動を取られて…本来なら痴漢だと叫ばれても仕方ないと思っている。
だけど、知らぬ仲ではない俺にそんなコトも出来ずに、抗うことも出来ずに…
手を…腕を解放すれば良いだけの話。だけど、その自由が利かずに小さな彼女を抱いたまま。
初めてこんなにも接近した、触れた。そんな彼女は、ほのかに香水と煙草の香りで包まれている。

「あ、あの…」
「……ゆいさん」

涙の理由を聞けるほど、俺には話術も器量もない。
どう声を掛けるべきなのか、慰めが必要な際の言葉はどう選んでいいのか…わからない。
ただ、その涙が消えてくれたなら、彼女がいつものように微笑んでくれたなら。
それだけを思った時には、何処かで変なスイッチが入ってしまって…今の状況がある。

「泣かないで、下さい」

口から零れた言葉はたったこれだけ。
もっとあるだろう。もっと、告げたい言葉があるだろうに…この一言だけ。
不器用だと思われているだろうか、口下手だと笑われるだろうか。
それでも、思いついた最上級の言葉はそんな小さな一言だけで、他には何もない。

「……心配、してくれたんだね」
「た、多分…」
「そっか。有難うね」

一瞬でも体を引き離そうとした彼女を、どうして俺は解放してやれなかったのだろう。
単刀直入な一言を告げて、彼女からも返事があったのに…どうしてこの腕を放すことが出来ないのだろう。
頭の中をフル回転させても答えは出て来ない。だけど、俺の体は言うことを聞かない。
人の往来の少ない道で、誰が見ているかも分からぬ場所で、あまりにも非常識だというのに。
そこまでの思考回路は正常なのに、どうして…どうしてだろうか。

「もう、大丈夫だから…」
「あ…」
「ね?もう泣いてないでしょう?」

困ったような、でも哀しさを帯びたような微笑みを上から見つめて、それでも体は動かない。
確かに彼女の言うとおり、もう泣いてはいなかった。涙は流れていなくて、それでも曇った表情は取れていなくて…
妙な心のざわめきと共に浮かんだ…いや、浮かぶより先に零れた言葉。

「離したら、帰って泣くでしょう?」

泣いていた理由も事情も何も知らない俺が、ただ顔見知り程度の付き合いしかない俺が、
突然に、唐突に、抱き締めておきながら吐く言葉ではない。零れた後に自分で批判しても取り返しはつかない。
心で弁解しても、口には出せずに…それでもまだ体は動いてくれない。
「何をやってるんだ」と自分自身をけなしながらも、それでも…この腕の力は緩まらない。
何故…何故だろうか?病気なのか?妙な感覚だけが至るところを襲っている。

「……そうね」
「え?」
「泣く、と思う…そうね、だったら…」



―― 押し殺された声、震える肩、俺の体は、動かない。



「胸、借りるね」

理由は…事情は聞けない。彼女が告げぬ限りは聞くことは出来ない。
ただ、動かないはずの体は正直に、ただ彼女の背を撫でていた。
ああ…そうか。体に指令を送る俺の心は、こうすることで彼女を慰めたかったのかもしれない。
泣かせてしまうことで、彼女を解放させたかったのかもしれない。

あくまで仮説、分からない自分の心と体。

静かに身を委ねて、静かに声を殺して涙する彼女に、俺は何か出来ただろうか?
今、こうしていること自体で、何か変化を与えることが出来たのだろうか?
そんなこと…わかるはずもないが、ただわかっているのは彼女が泣いているという事実。
一人で泣かせなかった、という事実だけ…



◆Thank you for material offer 遠来未来
御題配布元 Relation 社会人で御題「無邪気な子供は、嫌いじゃない。」


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