坊っちゃまに何かあれば直ぐにでも部屋に飛び込むからな、何にせよ三十分が限界だ、と言いつつ些か不機嫌になった魔王を抱いて部屋から出て行った彼女の行く先は向かいのお姉さまの部屋だ。十五メートルというのは非常に微妙な距離だと思う。こっそりと溜め息を洩らす。それから、


「ほら、来いよ」


ベッドの隅に座って両の腕を差し出せば、途端に苦しい位に抱き締められる。痛い程に力の籠もった縋る腕はゆっくりと下りていき、やがて甘えるように腰に回される。


「馬鹿だな、何勝手に拗ねてんだよ」


出来るだけ優しい声音を心掛けながら、ゆっくりと頭を撫でてやる。性格と揃いの硬めながら指通りの良い髪が眠たくなる程心地良い。


「古市、まだオレに触ってなかった」


予想通りの言葉が洩れ出て、呆れることすら出来なかった。この男は何時だってそうなのだ。オレの気を引く為だけに、有り余った全ての力を注いで駄々をこねる。


「古市、まだオレに声だって掛けてなかった」


いっそ泣きたくなる程に単純な駄々をこねる男が酷く億劫に感じる。この男の思考はあまりにも簡易にしか出来ておらず、幼稚園児のお道具箱にも満たない容量に小さな鋏のみがしまい込まれている。


「古市は、オレのだ」







世界で最も哀れむべき人間は存在感が出せないヤツだ。誰にも印象が残らないヤツは、己が世界で最も憐れむべき矮小な人間なのだと自覚するといい。

例えば人間とはただの金持ちじゃダメだ。デカい善意を振りかざすか、メチャクチャに悪じゃなくちゃ他人の印象には残らない。物理的な裕福だけではソイツが「ソイツ」である価値が全くない。
例えば反対に人間とはただの弱者でもダメだ。デカい被害を被るか、メチャクチャに無視されるくらいじゃなくちゃ、それこそ本当に惨めなだけになってしまう。他人の思考に入り込めなければ生きている価値はない。精神的な貧困を買える位惨めでなくてはソイツが「ソイツ」であって初めてつく価値を得ることは出来ない。誰だって無価値は嫌だ。オレだって嫌だ。


オレは何時だって、ギリギリでソレを回避している。
 

オレを「オレ」にしてくれるのは主に数々の女性票だ。「女の子に優しく紳士で、浮ついていて馬鹿な古市くん」として他人の印象にどうにか残っているオレは本当にギリギリの位置にいる。思考に思考を重ねて他人の、女性の印象の片隅に居座ることに努め続けているオレを男鹿は気に入らないらしいが、そんな事は言われても困る。いくら無気力なオレだって流石に誰の思考にも入り込めないなんて嫌過ぎる。最低限、二酸化炭素程度には「オレ」である価値が欲しい。普段吸ったり吐いたりするけど意識なんてしないし、いざ意識しても「二酸化炭素」ってことくらいしかよくわからない。その程度でいいから「個」が欲しい。

「男鹿の隣にいるヤツ」じゃ個にはなれないのだ。だから男鹿がいくら女好きを直せ、俺がいりゃいいだろと泣きついても変わらない。他に「個」のないオレは変わってなどやれない。「オレ」の価値を繋ぎ止める糸を片っ端から切り刻む小さな鋏を持つその手を握ってやることしか出来ない。
自身の為に、男の為に、こんな時に慰めて見せることしか出来ない。

男鹿は馬鹿だからそんな中身のないことに無理して安心して見せるが、馬鹿だからまた何時か耐えられなくなって縋ってくる。「個」があるヤツの我儘は非常に憎々しいが、オレの最後の砦とも言える男鹿をオレは何時だって叱れずにいる。オレの本能が男鹿を甘やかすだけ甘やかして作り上げた「個」を失った時の為の別の「個」を残す保険をかけているのだ。だから、


「そんなのわかってるよ、馬鹿だな」


束縛なんてするなよ、逃げたりなんかしないから。それからベッドを殴るな、壊れても泊めてやらないからな、なんて言って甘やかす。しかし半端な甘やかしは半端な安心感しか与えられずに、また眉間に皺を寄せて泣き出しそうな表情をして拗ねられる。嗚呼、本当に馬鹿な男だ。





「…、なぁ、男鹿。約束しようか?」


鍵なんて下らない玩具は止めよう、開け放された篭の方が出て行きにくいものなんだ、そんな戯れ言で誰のモノかもわからない逃げ道を残せば、イヤだ、と言ってガキみたいにイヤイヤしながらオレの腹部に男鹿は顔を埋めた。


オレは変わらない。男鹿も変わらない。撫でる手を止めれば旋毛が見えた。









「個」に固執する男の「個」を護る眼差しを隠している男の、旋毛が見えた。





















 

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