皇国テキスト

□愛をこめて笑顔を
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主と呼ぶにはあまりにも無惨に変わり果てていた。それでも名前を口にせずにはいられなかった。蚊の鳴くような声で主の名前を呼ぶ。既に肉塊と化した主にそれが届くはずもない。誰が見ても彼女の主は人間という生き物の原型をとどめていなかった。かつて主は堂々たる美丈夫と言うに相応しい見目麗しい男であった。その姿の面影などない。人間の面影すらもない。そう仕向けた男が彼女の背後にいた。

復習を果たしたはずの男は不思議なほど人間らしい顔をしていた。平均的で当たり障りのないありふれた穏やかな顔で彼女を見つめていた。それが男の底すら見えない異常性であるかのように思えた。

だがしかし彼女はそれに恐怖を感じなかった。主を失ったという喪失感が彼女の恐怖を麻痺させていた。それは両性具有者にとって生きる糧を奪われたからであり、決して彼女が勇敢な生き物というわけではない。

彼女は仲間の両性具有者からも臆病者だと言われていたぐらいなのだ。だからこそ主を与えられた時の喜びは同胞以上の力を持っていた。しかしそれを発揮する機会は奪われた。主がいなければ何の意味もない。無価値ですらあると彼女は思った。

「ありがとう」

男は穏やかに彼女に礼を言った。何故男がそんな言葉を口にしたのか彼女はよく分かっていた。だからこそ冷たく彼女は微笑んだ。今までこんな顔をしたことがない。人形のように張り付いた笑顔を浮かべてみせた。主が男の前でよく見せていた顔を真似てみせたのだ。それが今彼女に出きる唯一の復讐だった。彼女はそっと主であったはずの肉塊を抱いた。冷たい。それしか言葉が出てこなかった。底のない虚しさが彼女の心を支配していたが、主と同じように笑ってみせる事でぎりぎりの自己を保っていた。抵抗を見せなければならなかった。でなければ主が本当に人間でなくなってしまうから。

「どういたしまして、新城中佐殿」

主は彼女が望んだ情を示す事はなかった。彼らしいと彼女は思っていた。主にとって区別はありふれたものであり反省材料にはなりえなかったのだ。主の身分を考えれば当然の思考であった。ただ主は彼女を見放さず彼なりに面倒をみていた。評価を上げるためであったとしても彼女はそれを受け入れていた。

「俊兼さまもお喜びになられていると思います」

と、彼女は言った。自分でも驚くほど乾いた声だった。きっともうこの声が潤される事はないのだろう。それでも良かった。終わりにしてしまおう。

「まことにありがとう。全て、全部、何もかも彼のおかげだ」

「ええそうでしょう。これほど素晴らしい事はまたとありません」

「もちろん君にとっても」

男は満面の笑みを浮かべて愉快そうに笑いだした。ああ、可哀想な人。私ですら分かるぐらいの下手な演技。以前は完璧なまでに演じきっていたのに。そうこれで良かったのだ。何もかも俊兼さまがそう仕向けたのだ。だから彼の復讐は完成したのだ。主の復讐をさらに完璧なものにしてやらねばならない。

「おめでとうございます、新城中佐殿」

果てしなく憎む事など必要ではないのだ。主の憎しみを汚してしまうだけだ。今はもう亡き主の憎しみをこの男に伝える必要はない。憎しみを求める男の糧にはさせない。男はそう仕向けようとしている。だが主の憎しみは渡さない。どこまでも溺れ続けてしまえばいい。

「お一人で大変でしょうがどうかお元気で」

彼女はどこまでも乾いた微笑を浮かべて懐に忍びこばせていた拳銃を滑らかにだしてごく自然に銃口を自身の額に密着させた。男は笑顔のまま。知っている。そういう男だと彼女は主から聞いていた。だから彼女は決めていた。それこそが主の復讐を完璧にさせてやれる唯一の方法だと確信していた。彼女もある意味で狂っているのかもしれない。

拳銃に球は仕込んでいなかった。死ぬ気などなかった。死んでやるものか。お前の死をこの目にするまで死ぬ気などない。この男の無惨な死に様を、情けない姿を目にするまで死なない。

きっと喜んでくださるわ。だからそれまでこうしていよう。

乾いた微笑は彼女に奇妙な美しさを演出した。

もし主が生きていたらそんな彼女に興味を持ったかもしれない。けれどそれは無価値なのだと彼女は知っていた。

男の笑い声はいつまでも響いた。


◇◆◇◆

佐脇の副官は需要ないけど、佐脇と直衛の狂気に触れてしまったらたぶんまともじゃなくなるんじゃないかなって。

健気だろうけど、その健気さが狂気の引き金になりそうです。

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