坊ちゃんの記録U

□【逃走】
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 日差しの暖かな昼下がり。ホウアンは医務室へと続く廊下を歩いていた。何気なしにとんとんと肩を叩きながら歩いて、ふと外へ視線を移す、すると。

「わっ!!」

 走っていた少年が躓いて転んでしまった。少年は痛みにわあっと泣き出して、ホウアンは慌てて少年を診るべく廊下を引き返そうとして。

「転んだのか?」

 ふわりと、穏やかな声が響いて、少年はぴたりと泣き止む。少年の傍に屈んで、擦りむき血が出てしまっている膝を見ると、柔らかな笑顔を浮かべて言った。

「ちょっと沁みるぞ」

 持っていた水差しに入っていた水を少年の膝にかけて、血と砂を洗い流す。そして布袋から丸いケースを取り出し、蓋を開けて中の塗り薬を指に取ると、少年の膝に傷を覆うようにして塗りつけた。

「すぐ効くから」

 少年は不思議そうに見つめながら頷く。やがて塗り終わると、これでよしと言って、ケースに蓋をして再び布袋にしまう。

「ありがとうお兄ちゃん」
「どういたしまして。おやつの時間になったら、洗い流していいからな」
「うん、わかった!」
「あんまりはしゃぎすぎるなよ」

 またふわりと笑って少年の頭を撫でる。少年は照れたように笑って、元気に頷くと再び走り出した。その背を見つめる瞳が、一部始終を見ていたホウアンとかち合う。

「ホウアン先生……」
「見事ですね、びっくりしました」

 ホウアンの言葉に、フィルは照れながらもいいえと答えた。

「てっきり紋章を使われるのかと思いました」

 ちらりと、フィルの左手を見ながら言う。

「…痛みも傷跡も……紋章は綺麗に消してしまうでしょう?まるで、なかったかのように」
「……そうですね。先ほどの塗り薬は?」
「あぁ、これですか?」

 ホウアンに言われ、フィルは布袋からケースを取り出した。それをホウアンに手渡す。

「リュウカン先生に教わって作った傷薬です。だいたいの怪我ならこれで治ります」
「フィル殿は、治療にも携わっていたのですか」
「……いいえ」

 少し間をあけて、フィルはゆるゆると首を振る。少しだけ伏せられた瞳に、ホウアンは疑問符を浮かべながらケースをフィルに返し、問いを続ける。

「でも……学ばれていたのでしょう?」
「マッシュとリュウカン先生から少しだけです……後は、独学で……ずっと避けていましたから」
「……それは、まさか…」

 フィルはぎゅっと左手で右手を握りしめ、痛みを堪えるかのように瞳を閉じた。

「私は……私を信じて共に戦ってくれた兵士の最期を看取ることも、傷ついた兵士をそばで支えることもしない……そんな軍主でした。……薄情な人間ですよね」
「フィル殿……」
「一度も立ち入ったことはないんです……どうしても……怖くて」

 震える手を抑えるように、強く握られた手を、ホウアンは見つめる。歯痒かったに違いない。本当は手を差し伸べたかったに違いない。この優しすぎる青年は、何度自分を責めたのだろうか。 
でも、とホウアンが口を開くと、フィルはゆっくりと瞳を開いた。

「独学で学ばれたというのは」

 それは、覚悟を決めたということなのかとホウアンは思い、フィルに問いかける。すると、フィルは僅かに微笑んで答えた。

「……ナナミが……命を懸けて教えてくれました。生きようとする強い意志の前には、ソウルイーターは無力なのだと。……もっと、信じるべきだったんです……皆の強い意志を」

 弓の矢に倒れたナナミは、重傷を負いながらもフィルに想いの全てを託した。最初は躊躇っていたフィルの表情が、ナナミに手を握られて変わったのを、ホウアンも知っている。

「今は、信じられるのですか?」
「本当のことを言うと怖いです。こいつが暴れたらどうしようって、不安でいっぱいです、でも……」

 真っ直ぐな、どこまでも続く空の瞳がホウアンを見つめる。その瞳に揺らぎなどない。曇りのない、快晴の、空。

「逃げて変わることなど何もない。解放戦争が終わって、ずっと逃げ続けていました。時間ばかりが流れて、何も得られず何も変わらなかった。リウ殿に会って、ナナミの強さに触れて…私も変わりたいと思いました、強くなるために。こいつと…ソウルイーターと向き合うために」

 その一歩に、どれだけの覚悟が必要だったのだろう。優しすぎる青年が、その道を歩むにはあまりにも辛く険しい。聡い青年はそれさえもわかっている。それでも、語る瞳には光が満ちていて、それこそが彼の強さで、自然とホウアンも笑顔になり、強く頷いて言った。

「リウ殿ならきっと……あなたの強さになれるはずです」
「……私の、強さ?」
「はい」
「それは…」
「フィールさぁーーん!!」

 2人の会話に割り込むように、リウの元気な声が響く。フィルもホウアンも声のする方へ顔を向けて、フィルはやれやれとため息を吐いた。

「おやおや、リウ殿は今日も元気ですね」
「……ありがとうございます、ホウアン先生」

 もうこれ以上話を続けられない、そう悟ったフィルは、ホウアンに向かい合うと頭を下げて言った。それにホウアンは首を振って答える。

「いいえ」

 失礼しますと言い残して、フィルは自分の名前を呼び続けるリウのもとへと歩き出した。その背を見送りながら、ホウアンは誰に言うでもなく呟く。

「…リウ殿がいれば……あなたは強くなれます…。だからもう……」

 フィルを見つけて嬉しそうなリウと、それに困ったような表情をしながらも受け入れるフィルを見つめながら、ホウアンは祈った。




―それ以上、傷つくことのないように





***
2人はみんなに愛されています。ちなみにこの頃から、紋章に頼らない方法をフィル坊っさまは模索しています。ソウルイーターのみを宿すことになる、その日が来ることを薄々気づいていたのかも。基本的に目上相手の場合、ナチュラルに軍主というか英雄モードに変わります(笑)。

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