犬夜叉
□蛍
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「あっ、みてみて殺生丸様!ほたる!」
りんが指差す方に目だけをつと向ける。
なる程確かに蛍が数匹ゆらゆらと光を放ちながら飛んでいた。
今ここには殺生丸とりんの二人だけだ。邪見と阿吽は使いに出している。
もう夕日の朱も殆ど消えて、辺りには夜の闇が落ちて来ていた。
今殺生丸とりんがいるのはささやかな清流のほとり。
鳥達も落ち着き、水の流れるか細い音だけが聞こえる中、りんは歓声を上げた。
殺生丸は何も言わない。蛍も何も言わない。
ただどちらも静かにりんの声に耳を傾ける。
「うわぁ、きれい…!」
感嘆の声を漏らしながら、蛍に負けない位のきらきらとした笑顔を振りまいていた。
そんなりんを殺生丸は目を細めて見やった。
そして思わずどきり、とする。
りんから目が離せなくなってしまう。
向こうで淡く儚く光る蛍より、少し歩み寄れば簡単に触れられる少女。
殺生丸があの悲惨な末路を辿った村を、りんと共に去ったのは数年前。
童女から少女へと成長したりんは美しかった。
それは品のある、静かな日陰の美しさではなく、ただただ健やかに、日の光りを全身に浴びて育った向日葵のような美しさ。
そんな少女に夜の闇は些か不似合いだ、と殺生丸は心の何処かで感じた。
そんな殺生丸の思いなど知らず、りんは蛍を追いかけて駈けている。
身体は幾分か成長したものの、やっている事は昔と何一つ変わらない。
ふぅ、と軽く溜め息を吐いて殺生丸は立ち上がった。
「りん、駈けるな。落ちる。」
「きゃあっ!」
言うが早いかつまずくが早いか、りんはそのまま顔から勢いよく水面に突っ込みにかかった。
辺りはもう何も見えない程に暗くなっていたのだ。
ぎゅっっ!!と目を瞑って衝撃に備えたりんは、ふっ、と身体が後ろに引っ張られる浮遊感を感じた。
そしてふかふかの何かに背中を沈める。
まるで川に落ちるのが分かっていたかのような殺生丸の行動の速さに、りんは何が起きたのか分からない。
ぐっと首を反らして後ろの人を、否、妖を見上げた。
「殺生丸様!!」
りんが川に落ちる寸前に、殺生丸はりんの身体を己へと引き寄せ、川に落ちるのを防いだ。
「ありがとうっ!殺生丸さまっ!」
満面の笑みを己に向けるりんからは、微かな甘い香りが漂って来る。
香を焚き染めた訳では無く、花園に紛れた訳でも無い。
りん自身の、りんだけの香りが殺生丸の鼻腔をくすぐって止まない。
ひどく曖昧だが、殺生丸ははっきりとそれと知る。
この香りは己を慕う、一途な思い故の香りであることを。
この香りに彼自身も、りんに対する抑え難い気持ちを、己の物であるという欲を、りんに知らしめたいと思った。
不意に彼はその腕で、ぎゅっとりんを抱きすくめた。
りんは驚いて、再び首を反らせて背後の妖を仰ぎ見る。
「殺生丸様?」
だが彼は、りんの項から肩にかけてに顔を埋めたまま何も言わない。
周りをゆらゆらと舞う蛍達も、何も言わない。
「殺生丸様……。」
りんは自身の胸元にある殺生丸の腕にそっと手を置いた。
殺生丸の掌は、がっしりとりんの肩を掴み、りんを己から離すまいとしている。
着物越しに伝わるりんのぬくもりが心地良い。
今二人を見ているのは蛍だけ。
蛍は何も言わない。ただゆらゆら、ゆらゆらと二人の周りを舞っている。
この静寂を破ったのはりんだった。
しかし何時もの明るく、元気一杯な声では無く。
静かな、けれどもりんらしい無邪気さを含んだ声で尋ねる。
「ねえ殺生丸様…?ほたるって、なんで光ってるのかな?」
素直な疑問に、殺生丸は少し顔を上げ、りんを抱く腕に力を込めた。
そして躊躇無く言葉を口にする。
「子を成す為に、雌雄が互いに呼び合っている。それだけのことだ。」
それを聞いたりんが微かに顔を赤らめたのを、密着させている身体の体温で知る。
何とも可愛らしい、素直なことか。
「…ねぇ殺生丸様…、りんも、光ってた?」
全く予期していなかった質問が飛んだ。
「何を言っている?」
「殺生丸様は光ってたんだよ。とっても綺麗に。
りんはその光がすごく気になって森まで行ったんだ。
光が降りた場所まで行くと、殺生丸様がいたの。
酷い怪我してたけど、ほんとに綺麗だったんだよ!」
やっと何の事か殺生丸にも合点がいった。
りんは己と初めて出逢った時の話をしているのだ。
だからと言って、何故自分が光っていたか、などと聞いてくるのか。
惹きつけられるように己の元へ来た、土にまみれ、痩せ細った童女。
威嚇すると一瞬怯んだが、意を決し、己に近付きいきなり水をぶっかけてに来た。
何をする気かと身構えていた殺生丸は面食らい、呆然と小さな人間の娘を見つめた。
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