接吻

□掌なら懇願
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ぐったりと力の抜けた身体を、事も無げに両の腕に抱え上げた。

するりと長い黒髪が狒狒の毛皮に零れる。
微かに触れた肌は驚くほど白くて、死んだように冷たい。

否、冷え切っていて当たり前だ。
この身体はもう死んでいる。




城へ向かい飛びながら、腕の中の桔梗を眺めた。
血の気のない白い頬に、妙に艶のある黒髪が絡んでいる。
固く閉じた瞼を縁取る睫毛は長い。


五十年も前より焦がれた女が、今己の腕に抱かれていた。

思いがけず再生した、まがい物の身体を引きずって、この女はまた自分の前に姿を現したのだ。

知らなければ、この身に残った浅ましい人間の恋慕など、やがて塵も残さず消えたはずなのに。

結局は、蘇って来た桔梗を理由を付けて我が手の内に納めていた。


「人間とは、何とも哀れな生き物だ。」


ぽつりと空の上、一人呟いた言葉は、桔梗に向けたものか。
はたまた、名残惜しく存在する鬼蜘蛛に向けたものか。




そうやって、髪一筋零す事無く、桔梗の身体を屋敷まで運んだ。








冷たい手を取る。

それは死体と同じ様に冷ややかで。
けれども、ほんの少し意志を宿した。


それでも力の抜けきった、だらりと垂れた手を気にせず持ち上げて。


微かに、唇を寄せた。






死の、苦味が広がる。

己は、何を求めているのだろうか。

自分の方が、はるかに熱い肌で、触れていればいずれ桔梗の肉は溶け腐るのでは無いかと思うほどに相容れず。

それでも、何かを必死に乞い求めるような焦燥が胸に渦巻く。






「哀れなことだ…奈落。」


「何が、だ。」


桔梗は動かぬ身体で、視線だけをわしに向けた。

水の中に在る水晶のような目だった。
ゆらゆらと瑞々しく、綺麗に澄んでいるのに、どこまでも固くて冷たい。
そんな瞳だ。


「私に何を望む。」


「何も望みなどしない。」


何も望んでいるつもりなど無かった。




藻が水の中を泳ぐように、黒い瞳がゆるりと天井を仰いだ。




「私は存在しない。」


「………。」


「この世に…、現世(うつしよ)にあるのは、醜く砕けた骨片だけだ。」


「そんな物に、望みを掛けるお前は、哀れだ。」




意志も、身体も、心でさえも。
もうここには存在しない。

あるのは無理矢理に呼び戻された小さな小さな魂だけ。

容れ物が無ければさ迷うだけの、心も感情も伴わぬ、赤子のような無形物だけ。

だからこそ、この女に抱く物全てが無意味で、存在するに値しない物となる。




そんな物に、何も見いだせる訳もなく。

まだわしの手の中にある華奢な掌に、わしはもう一度、唇を落とした。











願わくば




この手で殺したい。




(終)
12.8.5 脱稿

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