春夏秋冬〜五十の調
□草枕
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静かに目を閉じて、耳を澄ます。
じんわりと明確になってくるのは、ゲコゲコと大合唱を奏でる蛙の声。
里の田に水が入ったのだろう。そろそろ田植えの季節だった。
今では縁遠くなってしまったけれど、りんも村にいた頃はこの時期になると田植えを手伝う。
普通、女衆は田に出る男達の飯炊きを主にしていたが、幼かったりんは、遊び半分に兄に付いて田に入ったものだ。
水田に入った瞬間の、足の指の隙間を縫って踏み出される泥の感触を懐かしく思う。
はぁ、と小さく息を漏らし、そっと瞼を開ける。
ゴロンと仰向けに寝転び投げ出した四肢に、日中の陽光を吸った生温い大地を感じた。
上弦の月はもう沈んでしまったようだ。
どこまでも遠く遠く透ける夜空に、つぶつぶと光る星が良く見えた。
「……眠らんのか。」
蛙の合唱が、ピタリ、と止む。
「……蛙の声、聞いてたの。」
先程までは気にならなかった邪見の高いびきが、急に鮮明になった。
深く息を吸いながら、ゆっくりと目を閉じる。
少しずつ吐いて、緩やかに目を開けた。
頭の先で、低い声がする。
「……日中の移動に支障が出る。寝ろ。」
穏やかに、そう言われる。
寝転んだまま、そっと指を伸ばすと、ふわふわとした毛皮に触れた。
意外にも、距離が近い。
蛙の声はあんなにも遠いのに。
今は貴方の側に自分がいるのだと、まざまざと感じた。
毛皮の一片を、小さな手でやんわりと摘む。
四肢で感じた大地よりも、少し、温かい気がした。
「うん……、でも、もう少しだけ、聞かせて?」
「………。」
小さく息を吐く音が聞こえて、りんは微笑む。
暫くすると、頃合を見計らったかのように蛙の声が一つ、二つと鳴り出した。
りんは再び、静かに目を閉じて、息を潜める。
やがて、重なるように大合唱へと変化していったその声の波に飲まれて、りんは何時しか深い眠りに落ちていた。
手に一房の毛皮を握ったままに―――。
遠く、遠く。
蛙の声が聞こえる。
人里はこんなにも遠い。
(終)
09.5.8 脱稿