小説

□花簪
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花簪


りんはあまりの驚きに、全てを――
そう、声の出し方すら忘れている。
それもそのはず、原因は今もわからないことではあったが、
今朝から髪に挿していた愛用の簪が、何の前触れもなく折れたのである。

たっぷりとした、豊かな黒髪を持つりんは、
簪に負荷をかけ過ぎたのかとも思ったが、折れた簪を見てみると、
刀で斬ったように真っ二つになっていた。

何かある。

この簪は「嫁取り簪」――…

無論、りんが殺生丸の手から受け取った品である。
殺生丸のほうでも、求婚の証として、
りんのためだけに手ずから選んだ高級な品だった。

少しずつ、意識を虚空の彼方から取り戻した
りんの紅唇から最初に零れたのは、嗚咽だった。

「………っ……殺生丸さまぁ……」

りんはぽろぽろ、大きな黒曜の瞳から珠を零し始めてしまった。
不謹慎ながら、紅鏡の光を受けて煌めく珠は、
りんのかんばせを麗しく彩っている。
なかなか治まってくれそうにないまま、刻だけが駈けていった。

この簪は殺生丸さまがくれた、りんの宝物なのに…

捉えようのない、黒い黒い、
絶望にも似た喪失感だけが、りんの心中を侵していく。

やがて、気の早い明星が瑠璃色の、
黄昏と夜闇のはざまの天蓋を翔け昇る刻限になって、漸く殺生丸が帰宅した。

折れてしまった簪を手に、ぼんやりと膝を抱えて座り込んだままのりんがいた。

―――やはり…

実のところ、殺生丸とりんの住まう草庵に、
何やら不穏な気が押し寄せているのは分かっていた。
だが、殺生丸は敢えて何も手を打つことはしなかった。

りんの手にある煌びやかな簪は、禍の身代わりになる、守り簪だったのだから。
だが、りんはそれを知らなかったようだ。
だから突然の宝物の喪失に驚き、そして何より、ひどく悲しんでいる。

「…りん」

「殺生丸さま…」

「それは禍からお前の身代わりになるように渡しておいた簪だ。
不穏な気が近づいていた。折れたのは必然なのだ。
折れなくば意味はない。」

「そっか…
これがりんを守ってくれたんだね。
でもりん、これ大好きだったのに…」

そう言って、また瞳を潤ませるりん。
その時、殺生丸の視界に、ひっそりと置かれている活け花が映った。
すっと、音も立てずに歩みより、その一輪を手に取った。

………?

りんの髪に、ふわりと触れた何か。
傍らにあった鏡台を見ると、漆黒に咲いた薄紅が映る。

「お前にはその方が似合うかもしれぬな」

「殺生丸さま、ありがとう。
りん、とっても嬉しいよ!」

漆黒に咲いた薄紅――
それは雛菊の花。
花言葉は「無邪気」。
殺生丸の目の前には、彼が愛して止まない、りんの大輪の笑顔がある。

殺生丸がりんに贈った花簪は、月華を受けて頬笑み合うふたりの間で、
柔らかく咲き誇っている。


【結】

平成二十年六月十七日

アザラシのきもち
ごま さまへ

500打・相互御礼
紅葉賀 鳳梨より

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