文書壱
□Mal d'amour(3)
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もう一度煙を吸い込んだ時、近付いてくる足音に気付いた。来てほしくない、と思ったそれは、迷うことなく俺の部屋の前で止まる。
「トシ、ちょっといいか?」
障子を一枚隔ててかけられた声は、間違いなくその人だった。
「あ、ああ。どうぞ」
少なからず焦りながら、俺は煙草を灰皿に押し付ける。
「うわっ、部屋の中白いぞ。煙草はひかえろってあれだけ言ってんのに」
入ってきた瞬間、彼は眉を寄せた。言われてから俺も部屋の中に充満した煙に気がついた。
「あ、悪ぃ。ちょっとボーっとしてて」
「換気しないと体に悪いぞ。ここ、開けとくな」
開け放たれた入り口から、生暖かい風が吹き込んでくる。隔絶されていた空気が、あっというまに外界のそれと混じりあう。
「昼間頼まれた書類、ハンコだけでよかったんだよな?」
向かい合ってあぐらをかくと、彼は何枚かの紙切れを差し出した。俺はそれを受け取り、ざっと目を通す。
局長印さえもらえばどこにも不備のないことは、それを書いた自分がよくわかっている。だが俺は確認した書類から目を上げられずにいた。
(何から話せば……)
タイミングが悪い。急な来訪に、せっかく今までいろいろと考えていた質問が頭の中からすっ飛ぶ。
「どっか押し間違ってた?」
書類を見つめたまま動かない俺に、彼は不安そうに問う。
「あ、いや、大丈夫だ」
慌てて顔を上げると、彼の視線にぶつかった。俺は反射的にそれをそらした。
風が入ってこなければ、重く固まった空気で窒息してしまうのではないかと思う。俺は必死に言葉を探すが、なかなか見つけることができなかった。
「トシ」
つむがれた己の名にも、しかし顔を上げることができない。
「こっちを見ろ」
抑揚なく発せられた言葉はどこか絶対的な響きを含んでいて、俺はようやく彼に目を向ける。
「おまえに、聞きたいことがあるんだ」
一重の目が細められる。俺は居ずまいを正してうなずいた。
「率直に聞く。おまえはこれからどうしたい?記憶を取り戻したいか?」
俺は何も言えなかった。