文書壱
□Mal d'amour(2)
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ただ、走った。
幕府のお偉いさんたちとの夕食会に参加していたところに、山崎からかかってきた一本の電話。
『副長が事故にあいました』
と。命に別状はない。たいした怪我もしていない。そう聞いても、ほとんど頭の中には入ってこなかった。
一応は公務だから、そう簡単にも抜け出せない。松平のとっつぁんになんとか口を利いてもらい、無礼を承知で夕食会を中座してきた。
トシに会いたい。トシの無事をいち早く確認したい。考えていたのはただそれだけだった。
けれど。
「誰?」
じっと俺を見つめた末に返ってきた言葉は、俺の欲しかったものとは対照的だった。
それから二週間。
目立った怪我もなく、精密検査を終えるとトシは退院した。今では以前と同じように、真選組副長としての任務をきっちりとこなしている。
だが。いっこうに記憶が戻らない。
俺が記憶喪失になったときのように、自分や周りの人間のことを忘れてしまったというのではない。日常の仕事内容や隊士たちの名前、性格などはちゃんと覚えている。生活には何の支障もなかった。
彼がなくしてしまったのは、「関係性」。そしてそこから生じる「感情」。
時間はかかっても、いずれ元に戻るだろうと医者は言っていたが。
「局長」
「ぅお、びっくりさせんなよー。どうしたんだ?」
噂をすれば、とよく言うが、現れたのは今まであれこれと思いをめぐらせていた人物だった。
「この書類なんだけどさ、ここに局長印がほしいんだ」
「分かった。押してからまた持ってくよ」
「ああ、頼むよ」
トシはそれだけ言うと、仕事に戻ろうとする。その背中が嫌で、俺は理由もなく彼を呼び止めた。
「トシ」
「ん?」
「えっとー、あのー、そうだ、新入隊士の歓迎会をしたいんだが、イベントは何がいい?」
苦しまぎれに尋ねると、トシは少し考えるように黙りこんだ。
「カラオケ大会、とか」
それはまた大胆な。
「えー、俺が歌ヘタなの知ってるだろ?」
そう言うと、トシの動きが一瞬止まった。俺自身も言ってしまってから気づく。
「あ、そうだったな、ごめん」
たぶんトシは、覚えていないのだろう。俺は自分の言葉の軽薄さを呪った。
「何かいいのを考えとくよ。じゃあ仕事へ戻るから」
「ああ」
逃げるように去ってしまったトシを、今度は引き止めることはできなかった。後姿を見送り、俺はため息をついた。