創作
□煙と灰と桜の花びら
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サイレンの音で目を醒ました小鳥は、パタタタタ・・・と小刻に羽を震えさせました。人間で言うところの背伸びです。
それから音のする方――鉄格子の外にある窓に目を向けました。
「なんだろう、あれ・・・・・・」
遠くで煙が立ち昇り、上空に溶けていく様子が見えました。
小鳥は不思議に思いながらも、なんて綺麗な光景なのだろうと心を弾ませました。
酷く汚れた黒煙。それが青く透徹した空に吸い込まれ、綺麗に浄化されていくように見えたからです。
「――あれは火事よ」
四方八方から同時に一つの声が全身に浴びせられました。
小鳥を囲んでいる鳥かごです。
「おはよう、私の可愛いい小鳥さん」
「おはようございます、鳥かごさん。あの、かじって何ですか?」
煙は以前、飼い主がパンを焦がし見たことがありましたが、火事は見たことがありません。
鳥かごは丁度テレビの後ろに吊されたので、小鳥は窓から見える外と1LDKの室内のことしか知らないのです。
そんな彼女の一番古い記憶は、この部屋からスタートします。自分の生まれたペットショップや両親のことも幼かったゆえ覚えてはおりません。それゆえ自分の生まれたルーツという概念も持ってはおりません。
何を知らないのかも知らないほど世界を知らない小鳥。
そのせいか、小鳥が思い浮かぶ疑問は内側からではなく外側から来るだけのものでした。そして初めて見たり聞いたりすることがあると、いつも鳥かごに目を輝かせて訊いておりました。鳥かごはいつも難無く答えてくれるからです。
「火事は火が家を燃やすことよ」
鳥かごはいつものように、いとも簡単に小鳥の疑問に答えました。
「あんな小さな火で家を燃やせるのですか?」
小鳥はガスコンロを疑惑に満ちた目で見つめました。今は火がついていませんが、記憶の中の小さな炎は家を燃やせるほどの威力があるようには思えません。
「火はあらゆる物を食べて大きくなるのよ。火事になったら、このアパートを飲み込むぐらいの大きさになるわ。あの煙だってここから見たら小さいけれど、近くで見たらすごく大きいのよ?」
鳥かごは優しく説きました。
「へー。そんなに大きくなるのですか」
新たに得た知識は、知る喜びと同時に知らなかった恥ずかしさをもたらします。小鳥は深く嘆息をつきました。
「鳥かごさんは何でも知っていますね。なのに私は、解らないことばっかりです」
「私の知っていることはここから見えて聞ける範囲を五年分咀嚼しただけのもの。僅かなものよ」
「五年!!」
小鳥は目を丸くさせました。
「そんなに同じ場所いたら飽きませんか?どこかへ行きたいと思いませんか?」
「いいえ。私は鳥かごですもの。私の意思とは関係なく胎児を抱えていればそれだけで幸せなの。幸せになれてしまうの――それは胎児にとっては辛いことなのにね――でも“そう”作られてしまっているから仕方がないわ。
――ふふっ。今までの胎児達にはたくさん罵られ呪われたけど、それは幸せの代価と言うところかしら」
冷たい鉄格子から、悲しそうに微笑む鳥かごの雰囲気が流れ出ました。
「代価を払わせてくれなかった胎児はあなただけよ。私の可愛いい小鳥さん。あなたは私に泣き言も恨み言も云わないのね」
「鳥かごさんが私を閉じ込めているわけではないですし。私を閉じ込めているのは私の飼い主ですから」
小鳥は当たり前のように答えました。
「そう言って頂けて嬉しいわ。ありがとう。
でもあなたも鳥ですものね。空へ飛び立ちたいでしょう?」
「はい。空を飛びたいです」
小鳥は雄大な空を飛ぶ鳥をうっとりと眺め、鳥かごに問いました。
「私の前にここに居た鳥たちも空を願ったのですか?」
「ええ」
「空へは行けましたか?」
「ええ」
嘘でした。
鳥かごは呼吸を乱すことなく嘘をつきました。
小鳥をがっかりさせたくなかったからです。
「他の鳥はどうやって空へ行けたのですか?」
「たまたま人間が扉と窓を閉め忘れていたのよ」
この五年、鳥かごの扉の閉め忘れは一度としてありませんでした。
その上、この鳥かごの持ち主は扉を開ける時はいつも窓を閉めるよう心がけております。
なのでたとえ鳥かごの扉が開いていても、天井や壁に羽をぶつけながら逃げ惑い、最後には大きな手で捕まるのがオチでしょう。
「・・・・・・そんな幸運、私にも起きてくれないかなあ」
嘘は小鳥の希望となり、鳥かごの枷となります。
鳥かごは諦めさせるような口調で言葉を続けました。
「自由があると平和がない。自由がないと平和がある。どちらに幸せを見い出せるかではなく、今の状態に幸せを感じてごらんなさいな」
「両方を経験していないと、経験していない方により大きな幸せがあるかもと考えてしまいます」
「より大きな不幸があるかもしれない」
「でも思うんです。もし空を飛べたら、空を飛びたいという胸を焦がす今の苦しみは消えるでしょう?
消えた箇所には幸福が空の広さのように満ち溢れ、この青い幸せの前にはどんな絶望も敵わないでしょう――あの汚い煙のように。
そうしたら、空を飛ぶことで後悔するようなことがあっても、その後悔を受け止められる気がするんです」
「後悔を知らなければ何とでも言えるわ。私の可愛いい小鳥さん。私の中(ここ)はそんなに嫌かしら?」
「とんでもありません!私は私は鳥かごさんも飼い主も大好きです。でも空への気持ちを抑えることができないのです」
小鳥の飼い主は鳥好きで、小鳥を大切にしておりました。小鳥もそれを解ってはいました。
しかし空への想いは消えません。
“それ”は本能です。
「好きなものは一つとは限らないものね。――それで良いと思うわ」
鳥かごの力なき声に、小鳥は心配してさえずりました。
「ごめんなさい。私、何か気に障ることを言いましたか?」
「いいえ。大丈夫よ。ただあなたがいなくなったら寂しいと思って」
小鳥は笑いました。
「私がいなくなっても、きっとまたすぐに代わりの鳥がやって来ますよ」
「そうね」
鳥の代わりはいてもあなたの代わりはいないのよ?
鳥かごはそう思いましたが、口にはしませんでした。
「いつか空へ行けたらいいわね」
「はい!」
にっこりと無邪気に笑う小鳥に、鳥かごはチクリと胸を痛めました。
――もしもこの子が私のお腹から出ていく時があるとすれば、それはこの子が死んだ時。
「あなたがいなくなったら寂しいわ」
鳥かごは誰にも聞こえない声で呟きました。
***
次の日、小鳥は飼い主がアパートを出ていくのを見届けると、いつものように空を眺めました。
白い雲が穏やかに流れ、桜の花びらと鳥が舞い踊っております。
小鳥にとって、初めての春でした。
「鳥かごさん、あの薄い白いような桃色のような紙切れはなんですか?」
「あれは桜。花びらよ」
「さくら・・・・・・」
小鳥は宝物の名を言うように反復しました。
「とても、とても綺麗ですね」
「でも地面に落ちると汚くなるのよ?私はそっちの方が好き。安心できるもの」
「安心?」
「綺麗なだけでなく汚い面もあるんだと。綺麗なだけのものはないんだと。汚くてもいいんだと。そう思えるよう狂わせてくれるから」
「鳥かごさんの銀色はとても綺麗で、汚くないですよ?」
「ありがとう。でも私はとても汚いわ。いつか、あなたのことも汚してしまう――いえ、もう汚してしまっているのかもしれない――」
「鳥かごさん?」
小鳥がちょこんと首を傾げると、何やら異臭が鼻につきました。
「あれ?なんか臭いませんか?」
「・・・・・・焦げた臭いね」
「でも誰もいないのに・・・・・・」
小鳥はトースターに変わりがないことを目認すると、部屋を見渡しました。
すると壁と天井、壁と床の隙間から、うっすらと煙が上がってくるのが解りました。
鳥かごもその異常に気付いたようで、ポツリと呟きました。
「火事だわ」
***
突然の出来事に、小鳥は落ち着かない様子で鳥かごの中を飛び回りました。
「火事になったらどうなるのですか?」
鉄格子を軋ませ小鳥は叫びます。
「大丈夫。怖くないわ、落ち着いて」
小鳥をあやすように鳥かごは言い繕いましたが、たちまち炎は二人のいる部屋に進入し、一気に炎上しました。
「熱いよ!熱いよ!」
熱気にあえぐ小鳥は悲痛の声で鳴きました。
鳥かごの中をピンボールのように飛び回り、体中が激しく鉄格子にぶつかります。
「落ち着いて、お願いだから飛ぶのをやめて」
小鳥の体を心配し、必死で鳥かごは声をあげましたが、小鳥には炎の燃え盛る音しか耳に入りませんでした。
「熱いよ!熱いよ!」
「くっ・・・・・・」
鳥かごは自分に何もできないことをここまで苛立ったことはありませんでした。そして苛立ちは炎が迫るのと同等に哀しみに変わりました。
哀しいのは小鳥の死を認めてしまったからです。
「私の可愛いい小鳥さん。あの炎に包まれたら空を飛べるわ。だから怖がらないで?私も一緒に行くから」
「痛いよ、熱いよ、やだよやだやだやだやだ来るよこっちに来るよ!」
鳥かごの声が届かないほどに錯乱している小鳥は、鳥かごと共に炎に飲み込まれました。
「あ゙あ゙あ゙ああああああああああああああ!!!」
小鳥の最期の絶命は、思わず耳を塞ぎたくなる絶望的な鳴き声でした。
鳥かごも痛みに哭きました。
しかし、小鳥の柔らかな羽毛が簡単に燃え尽き、皮がブクブクと水膨れを作り、次第に炭へと変わる様を全て見届けました。
「あ、あ・・・・・・!!」
そして愛するものが完全に焼かれると、呆気なく思考は全て痛みに乗っとられ、鳥かごは何も考えられなくなりました。
「あああああ・・・・・・・!!」
銀色に光っていた艶やかな鉄格子は黒く変色し、不気味に歪んでいきます。
体を破裂させそうな痛みは、責め立てるように激しさを増します。
鳥かごは声の限り絶叫すると、最期にふわりと微笑みました。
――これが代価ならば安すぎるわ。
それは勝者の笑みでした。
空には煙と灰と桜の花びらが共に舞い上がります。
その灰色とピンクの神秘的な色合いは、野次馬達の目をひきました。
鳥かごの煙も、小鳥の灰も、空高くに消えていきました。
終わり