創作

□背中の妹
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不満はないが、疑問だった。

父は働き、母もパートで働いている。
なのに僕の家は経済的に裕福とは言えない。
裕福ではないから共働きをしているとも言えるけど。

持ち家もなく、借りアパートでの質素で簡潔な暮らしの毎日。


しかし、僕が幼稚園児の時、その生活が一変する。

母がパートを止めたのだ。理由は妊娠。

妊娠。

これが、僕の不満ではないが疑問なこと。

果たして、もう一人子供を産んだとして、生活は大丈夫なのだろうか。

そんな疑問の中、僕の妹――亜子は産まれた。

その後、僕らはアパートを引き払い、父の実家へと移った。

大丈夫なわけがなかったらしい。


***


祖父は僕が産まれる前に病死している。
なので祖母との同居生活になったわけだが、祖母は父が大好きで、奪った母が大嫌いだったようだ。
連鎖的に僕と亜子も嫌われ、母と僕と亜子は、祖母にことある事に嫌味を言われる新生活の始まりだった。

母は苛々しながら、父に何度も愚痴を言った。
だが父は黙って居心地悪そうに新聞を広げるだけ。
それは心臓を有刺鉄線で縛られるような、不気味で分厚い圧迫感のある暮らしだった。

そんな生活の中、僕の救いは亜子の無邪気な笑顔だけだった。
僕を見て笑顔をくれるのは、亜子だけだったから。

しかし、祖母の言葉を理解できるほどに亜子が成長すると、亜子はあまり笑顔を見せなくなった。
だけど、僕と二人っきりの時は『お兄ちゃん』と、僕を呼び、僕に笑いかけてくれた。
かわいい僕のたった一人の妹。

世界に二人だけだったら、亜子はずっと笑顔でいられるのだろうか。
世の中には邪魔なものが多すぎると、僕は思った。

母は亜子が小学校に入学すると、祖母と父の反対を無視し、パートを始めた。
空気の重たい家に居たくなかったのだろう。
母はすでにこの家庭に愛情を持ってはいなかった。

そして父と母が家に戻る十時頃まで、祖母と僕らの三人の時間ができるようになり、嫌がらせは悪化した。

口だけでなく、手も出るようになったのだ。

祖母は毎日僕を平手で叩き、足で蹴り、針で刺し、ペンチでつねり、剃刀で斬り、サンドペーパーで血が出るまで肌を擦った。

僕は抵抗せずに祖母の悪意を全て受け止めていた。

『お前の母親が誘惑したんだ』『この雌狐のガキが』『お前達さえいなければ』『死んでしまえ』

僕は数々の罵詈雑言と折檻を受けている間、亜子には押し入れの中に隠れているよう言い聞かせていた。

折檻をしている間、祖母は冷静な判断ができない半狂乱に陥るため、(もう半分の正常は僕の顔に傷がつかないことに使っているのだろう)目の前にいる僕だけを狙う。
僕さえいれば、亜子にまで被害がいくことはない。

だから僕はじっと石のように動かず、骨にまで響く痛さをうずくまって耐える。祖母が汗だくになり、体力がなくなるまで。

祖母はだいたい二十分くらい過ぎると、ゼイゼイと息をつき、僕らの部屋から出ていく。

僕は痛さで動けず、仰向けのまま変わりばえのない天井を見、静かに襖が開く音を聞く。

『お兄ちゃん』

亜子はいつも泣いていた。
亜子の落とした涙は、とてもよく傷口にしみる。


***


僕は、亜子の精神の安定だけを中心に考え動いていた。
その結果が生活の改善ではなく現状維持。

まだ、今の状態なら亜子は再生が可能なほどには大丈夫だ。

だから亜子の精神が今より悪くなる可能性が出るような行動は取りたくはない。

もし機関や学校の先生に相談し、家庭訪問をされたら、祖母は刺激され、均衡が崩れ、その影響は亜子に暴力という形で現れるかもしれない。
施設に逃げ込んだとしても、それが亜子にとって良と出るか悪と出るか解らない。
それに僕は施設に偏見はないが、そうではない奴らもいる。
そんな奴らに亜子の心を踏みにじられるのはごめんだ。

力のない父と母に助けを求めるつもりはなかった。
それに二人は薄々とだが、祖母の行動に気付いている。
荒波を立てないよう見てみぬ振り。
僕は、二人が僕と亜子を見限ったように、僕も両親を見限った。
僕の家族は亜子だけでいい。

僕は早く大人になりたい。

吉と出るか、凶と出るか、博打を打つにはまだ僕は子供すぎる。


***


僕と亜子は、いつも校門前で待ち合わせをし、一緒に下校をしていた。
下校と言ってもそのまま帰らず、図書館で時間を潰してできる限り家に帰るのを遅らせていたのだが。

だがある日、いくら待っても亜子が校門にやって来なかった。

僕は人の気配のなくなった校内に戻り、二階にある亜子のクラスを覗いてみたが、誰もいない。

僕は眉間にシワを寄せた。亜子は校門を通っていないのだから、学校にいるはずだ。

僕は一階の職員室に行き、事務的にドアを叩いた。

亜子の担任は僕の三年の時の担任でもあり、すぐに見つけられた。

『先生、亜子がもう帰ったか解りますか?』

『ああ、亜子ちゃんなら昼休みに具合が悪いっていうから車で家まで送って行ったよ?』

教師は俺って優しいだろ?と言わんばかりの表情で僕に言った。

言った。

家まで送ったと。

言った?

『君達のご両親は共働きだけど、お婆ちゃんがいて良かった・・・っておい!?どうした!?』

僕は最後まで聞かずに駆け出していた。

全力疾走。

上履きのまま学校を出、行き交う人が不思議そうに僕に視線を向ける。

どいつもこいつも道を塞ぎやがって。

どうして邪魔をするんだ。
僕と亜子は、ただ二人で生きていきたいだけなのに。

いや、今はそんな感傷にひたっている場合ではない。とにかく走れ。

走れ走れ走れ走れ走れ。

脇腹が爆発しそうだ。
汗で顔に髪の毛が張り付く。
聞こえるの荒い自分の息だけ。
息をするたび、心臓が吐き出そうだ。
喉が冷える。

それでも走れ。

僕は自分の体がバラバラになっても走らなければならない。

走れ。走れ。走れはしれはしれはしれしねしねシネ死ね

死ね!

僕は呪いながら坂道を駆け上がる。

そしてコンビニを左に曲がり、僕らの家が見えたその瞬間、僕の腐臭の沸き上がった悪意が強くなる。

亜子に何かあったら――

僕は荒々しく首から下げている鍵を取り出すと、ドアを開けた。

音は何もしなかった。

僕は忍び足で居間へ向かう。

そこには亜子がいた。

『亜子っ!』

守りたかった大切な僕の妹。

亜子は、手首と足首を縛られ、床に転がっていた。
そのまだ幼さの残る白い肌には、赤い腫れが糸ミミズのように無数に浮かび上がっている。

僕は急いで生死を確認したが、気絶しているだけだった。

『良かった・・・・・・』

良かった?

亜子は壊されたのに?

壊された?誰に?

――アイツにだ。

僕は気絶している亜子を介抱する前に、姿が見えぬ祖母を探した。


***


一階にはいない。

僕は静かに二階へ進み、祖母の寝室を覗くと、祖母はベランダで布団を取り込んでいた。

ベランダと玄関が逆の位置で良かった。

僕はニコリと笑い、祖母に近付く。

布団を引き上げようと、祖母は端と端を両手で掴んだ。
なんて無防備な後ろ姿なのだろう。

僕は両手で祖母の足を抱き上げた。

『ひぃぇ!!』

祖母は少女のような悲鳴を一回上げ、後は『ああああぁぁぁ・・・・・・』と、マヌケな声で落ちていった。

グシャリ。煩い終了音。

終了。

・・・・・・あっけない。

人を殺した後は、世界の終わりのような、天が落ちてくるような、そんな途方もないことが僕の身の上に起きるのだと思っていた。

だが、何も起こらない。

あるのは祖母の不在だけ。ないのは祖母の存在だけ。

僕は下を覗き込みたい気持ちを抑え、外から誰にも見られぬよう腰を低くしながら部屋に戻った。

階段を口笛を吹きながら軽快に下りる。

なんだ。この異常なまでの達成感は。

ルールを破ったって、それは人間の作ったルールであり、神の作ったルールではない。
要は人間にばれなきゃいいだけの話だ。
まあ、神様の存在なんて信じてないけど。

僕は亜子のいる一階の居間に向かう。

そこには庭に通じる窓がある。

僕が窓越しに眺めると、庭には人だったものが大輪の花を裂かせていた。

僕は満足げに微笑んだ、その時。

ピクリと奴の指先が動いた。

頭から脳味噌っぽいのが出ているというのに、どれだけしぶといんだこいつは。

僕は窓を開け奴に駆け寄った。

「おばあちゃん!おばあちゃん!どうしたの!?」

もし誰かが外から見たとしても、心配して駆け寄っただけにしか見えないだろう。

僕は祖母を揺さぶる振りをして、口と鼻を塞いでやった。


***


祖母の死は事故死で終わった。

亜子に折檻のことは口外しないよういい聞かせておいて良かった。
誰も僕を疑う人間はいない。

葬式では、父が悲しげに眉間に皺を寄せていたが、何も言わなかった。
母はハンカチで目尻を抑えていたが、口の端は上がっていた。
子供の目線だと丸分かりだよ、お母さん。


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