小説

□「名のない忍び」
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生温かい夜風が肌を包む

浴衣を身に纏った一人の武士は縁の下で


瞼を軽く落とし…

季節感に心を投じていた

乱世の時代に生きる武士達は常に死と隣合わせの危機感と不安に精神な疲労は相
当あった


昨日人を斬り、次の日は平然とした態度をしていなければならない

何か心を落ち着かせる為の術も身につけておかなきゃいけないことも必然だった


この武士もまた、

自然の静けさに身を移して精神を鎮めることの最善を十分わかっていた


─サワ─…

急に風が止む


その微かな変化に武士の瞼はゆっくりと薄目を開けた


ふと───。


武士の視線が庭の一隅に投じられる。


見えるものは並の人間じゃわからない

武士は暫し無言で凝視する

姿は見えずとも気配は陰惨なものであった



「──そこにいるのは刺客であるか、お主」


武士はゆっくり口を開いた


ゆらり──。



突然、黒い影が地から這い上がるかのように突起物が現れる



「………明智十兵衛光秀殿とお見受け致す」


何処から声が聞こえてきたのか

黒い羽織を身に纏った男が膝を地につけていた

老いぼれた老人である



「刺客であるか?」

「いや…貴公を倒すなど…、かなわぬ…」

「そうは見えぬが…」


老人は薄ら笑いを浮かべる


光秀は細目でその姿を見つめていた


「某に何の用か…」


「…用といえばただ…貴公の姿を拝見したく…」

「お主のような忍びの達者が公然と姿をさらすことは、滅多にあるまい」

「…はて、拙者は忍びだと申したかな?」


「いや、違うのか?」


「……さすがは明智殿…」

男はまだ笑っている


「某方の所望は何か」

「所望…」

「某方は…甲斐の忍者であるか…」


「左様。某は真田一門が率いる忍び」


(真田一門…

やはり…武田か…)


「偵察であるか?」

「偵察でも御座らん。ここ一週間は貴公の上様は身を隠れも致さない」

「……………」

「お命を頂戴つか奉るなれば其までの所存でござろう」


「それは、無理であろう」

光秀は冴えた眼差しで見据えた

はっきりと断言した

魔王は刀で斬れる肉身ではないとでもいいたげだった



「左様、あれは斬れまい」

「…………失敗したか」

「拙者の力じゃまだまだ通用出来ない。あと一年はかかろう」


たった一年…


光秀は内心疑った


「…ならば去るがよかろう…某方は見ると……………まだ若い」

「まさか明智殿に見つかるとは思いもよらなんだ……」



よく見ているとだんだん老人の印象から青年へと変わっていったようにも感じる

若々しい生気溢れる瞳がこちらを見ている


先程のかすれた声も聞こえない

背筋はピンと伸び今にでも飛び消えてしまいそうだった


これも忍者の変わり身の術を使っていたのであろうか…


「貴公殿は」

「……」


黒布を纏う青年は小さく口を開く



「………この戦をどう見受けあそばすか…」


光秀は眉をひそめた

青年の双眼は鈍い光を宿していた


「明智殿はわかっているでござろう。」


「………………」

「こたびの我らが率いる武田との戦にに、三河殿は意地を張っておいでであると、しかとこの耳に聞いた」


「………風聞を信じるのか」


「……御意」

「………」


織田の屋敷の中でも約四百は下らない程、忍びを敷き詰めているはずだ

なのに一報もその情報の知らせがなかったというのはいよいよこの忍者を尋問し
なければならない


(この青年…)


(只者じゃない ──)


「この明智十衛兵に公言される存念は?」

「貴公は将軍義昭様の供奉でもござう…」

「…………」

「…ついに将軍様をお見捨てなさるかと、ご意向をお訪ね致したい」

「……報いるべきものは報うべきであるもの。敬虔なられるような所存なれば何も言うまい。致し方ないこと……」


光秀はその理由を自分自身へも鈍る決断に促しているようだった


「将軍(義昭)様はまだ貴公殿を諦めていないでござる」

「…………」


「貴公の手並みは拙者の旦那様(信玄)も知っている。戦国随一の知略を持っていながら、何故、織田の方に加担なさるのか。周りの大名陣は譫言を申し上げておる。」


「……………」


「反織田同盟は今じゃ戯言では御座らん。旦那様はこたびの叡山焼き討ちに酷く傷心なされていた。旦那様の思いは今やひとつ」


「…………」


「西上し、織田、徳川を滅し示さんかな」


「……………」


「将軍様は武田の京入りを今にも待ちわびているでござる」


「…………甲斐の虎も仏塔の前では只の猫であると…」

「……物は言い様。神仏は肉身以外の頼どころ。貴公と同じでござる」


「………」

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